INFPの転々白書

その時の価値観を書き殴る。

通りすがりに笑われた

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出典:Pixabay

じゃがいもと大根と納豆と魚を買いにいった帰り道。

駅前。

二人組の男とすれ違いざまに、左手の男に何か言われ、その後そいつらに笑われた。

何と言われたのかはよく聞き取れなかったし、こういう時俺は自動的に素通りするようにしてる。

こういう体験、何度目だろうか。

心当たりが結構あるんだよ。

そういう雰囲気だしてんのかもな俺。

一昔前は、こういう目に会うたびになかなか凹んでいたのだが、他人の前では自分を偽るようになってからは、まあダメージは少ない。

なんなら、知らないアンちゃんに声を掛けられたらちゃんと目を見て反応する、くらいにはなれると思う。難易度高いけど、、てかする必要ないんだけど・・・。

それはそれとして、今回はちょいと捻くれた視点から書きたいことがある。

 

〇評価の有無

こういう場面に遭遇したときに、人は分岐する。

その後とった行動が、評価されるか、されないか、の2パターンで。

 

今回の場合、大人だねと評価されるためにやらなければならないことが2つある。

何食わぬ顔でやり過ごし、冷静さを保つこと。

そして、その事を周りに伝達することだ。

俺は評価されたい。でも俺は周りの人間に「こんなことがあってさーこうしてやったわけよー」と、そのことを伝えることに斥力を感じるタチなのだ。

強いナルシズムを感じるのだ。

無論、周りと異なることをしなければ、特色のない歯車として生きてゆくしか無くなるので、自己主張をしていかなければ俺の望みなんて日本では一つも叶わない。

付和雷同を促す教育によって、まるでタバコのヤニのように脳内にこびり付いた同調の思想が、まだまだ落ちていないらしいことを証明している。

俺が一番のナルシストってことになる。

 

 

 

○優しい行為をしたことを周りに伝えないやつに出世はない

俺はこういう対応しましたよ、という事実は、そこに人が居なければ消滅する。記憶にも記録にも残らない。

目の前の人がさり気なく誰かを助けたとする。

気がついているのはお前だけ。

お前がいるから、助けたそいつはヒーローとなる。

お前がいなければ、なんて事ない。無意味。

世の仕事なんてのはほとんどそんな感じであるが、だからこそ人はプライベートの時間には可視化された評価を求めるのだろう。

賞賛獲得欲求だ。

みんな、自分がヒーロー=特別な奴になるのに都合の良いチャンスを待っている。

自分より弱そうだから、あいつのマナーを注意する。

自分より弱そうだから、あいつの服をからかう。

都合の悪いチャンスならゴロゴロとあるが、かけた苦労への対価が安いものだから誰もそんなチャンス掴まない。

話をもどすが、評価されたければ

・どんな場面に遭遇したのか

・そこで自分が何をしたのか

最低これを周囲の人に話さなければならない。

 

ノウハウ系や考察系のトピックなんかでも、こういうスタイルでの切り口は常識である。

人間関係、評価して欲しいという賞賛獲得欲求においてもそれは同じなのだ。

今は親近感がなければ金にはならないかもね。

インターネットによって暴かれる、人々の実力の差。

それに圧倒されたり感化されたり、スマホを持っていればそんな時間と日々が積み上がる。

そうなってくると影ながら努力してるだけの奴はあまり注目されやしない。

作品だけでは伝わらない。

それよりも、実はアイツはこんなに努力してるんだぜと言ってもらったり、なんなら自分で努力してますよアピールをしなければ誰にも見られないのだ。

なぜ作品だけでは評価に繋がらないのか。作者の性格、人物像が見えないものには皆んな興味が湧かないからだろう。

 

〇かといって、急激な変化を求めれば反動を仕掛けてきやがる

このままではいけないと考えて行動に移した人間は、まず乗り越えなければならない壁ってやつを周囲の人間から与えられる。

それまでコソコソとやっている奴が急に自己主張する行為は、物珍しさ故に写真に収めたいという好奇心から、周囲の人間を焚き付ける。

なぜ物珍しいと感じるのだろうか。その人間の新たな側面を「初めて見た」だけであるというのに(つまりてめえが無知だっただけ)、まるで珍しい現象を垣間見たかのような大げさなリアクションを取りやがる。

 

50パーセントほどのやつは他人をキャラ付けしている。

○○くんってそんなキャラじゃないじゅわ〜ん、とか言うアホが周りにいるだろう。

多くの人は自分と他人にキャラを与えるものだ。

これに書いてあった。

青年期における “キャラ” を介した友人関係と承認欲求・評価懸念との関連 

まあ俺は大半の奴がキャラ付けしてると思うけど。

キャラを介したコミュニケーションは、周りから浮きたくない、つまらない奴だと思われたくないなど消極的な理由と、面白い奴だと思われたい、人気者にないたいなど積極的な理由とがある。

前者を拒否回避欲求という。

後者を賞賛獲得欲求という。

まとめて承認欲求だ。

つまり自分をキャラ付けしている奴はどいつもこいつも承認欲求の塊ってことだな。

ならば他人をキャラ付けする連中はどうなのだろうか。

これは分からん。しかし俺に言わせれば、他人をキャラ付けする奴なんざ、自分にキャラ付けする奴よりもよっぽど始末の悪い連中だ。

「あの人普段怒らないのにねー怖いねー」とか言ってる奴。

怒るに決まってんだろ。ロボットであって欲しかったってか???

「あ!ワイ君も笑ってるよ!」

ぶち殺すぞ。

 

俺の何が分かるってんだ。

 

 

色々と嫌になる。

通りすがりに笑ったあいつも嫌いだし、絶賛の嵐的なコラムも嫌いだし。

自分を偽ることに長けてきたというのに、こんなことで一々躓く。

どうやって生きていけば良いのやら。