INFPの転々白書

その時の価値観を書き殴る。

コミュ障になった契機その2

どうも。サボり魔の私です。

最近、ほぼ1日一曲のペースでループ曲を作っているので、すっかり肩が凝っております。ループ曲の作曲はなんだかんだで一か月継続しており、既に50曲量産した。疲れた。

多い人では現在600曲とか1000曲とか登録しているので、とりあえず追いつくまでは粘ろうと思う。はげないか心配である。

 

今日は放置していたこの話の続きを書いていく。

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出典:Pixabay
 

 

○モンハンをやめる

中学3年。

一緒にモンハンをしていた連中が6人程いたが、徐々に人数が多くなり、とうとう嫌いな奴まで混ざってきたのでモンハンをやめた。

正直、この頃の記憶は他にはない。

 

○高校へ

高校は偏差値の低い所へと入学した。

はじめて教室に入った時は驚いたもんだ。どいつもこいつも垢抜けており、大人っぽくて、ヤンキーっぽかった。いじめられるかもとか思ったが、在学中にいじめはなかった(少なくとも男子はなかった。女子は分からん)。

この時の俺はとにかく明るく振る舞っていた。いじめられたくないし、1人になりたくなかったのだ。ハメを外したり、若干浮いた場面もあったが、すべて計算して演出していた。結果、高1のうちに結構な数の友達は出来たし、高2の夏休み前には女子の友達も結構いた。

 

○高2、彼女ができるも何も起こらず

全ての友人は、俺ではなく、俺の演技に惹かれていたということが分かった。生まれて始めての彼女は、素の俺などには微塵も興味を示さなかった。まあそれもそうだ。とりあえず恋人さえいれば陰キャラ認定は免れるというのが高校生だ、俺の御役はあくまでも「私の明るい彼氏」だったのだ。高校生の俺には早すぎた事実を、俺は受け止めるだけで精一杯だった。なのでデートに誘ったのも一回だけだったし、キスどころか手も触れないまま2か月で別れた笑。

 

高2の秋以降、俺の口数は減り、表情筋は凝り固まっていった。

演技をすることに疲れたのだ。とりあえずアホなことをやっていれば高校生活が充実するのではないか、と考えていた俺の自尊心はボロボロになった。「もう面倒だし、素でいたほうが楽やんけ」という考えに至り、友達を断捨離していった。どいつもこいつも、連れションやら遠足やら弁当の時間やらを一人で過ごしたくないから俺を利用しているのだろうと考えたりもしたが、利用していたのは俺の方だった。

結果、無口で何を考えてるのか分からない奴となった。あぶねえ。

 

ただ、中学時代の友人2人とバンドを組んでいたので、練習しているときだけは少しだけイキイキしてたかな。

 

それ以外の高校の頃の記憶はほばない。

 

○19歳。バイトを始める。

19になる年の4月から、俺は実家暮らしをしながら地元の食品工場でバイトを始めた。

仕事内容はいたってシンプルである。食品の粉末状の原料を、棒立ちしている俺の目の前でプルプル震えてるでけえ機械に入れるだけだ。いや他にもあるけど大体これだった。毎日無言でぶち込んでた。

手前みその話、かなりがんばって働いていた。ほかにやる事もなく、まだ自分の鬱耐性も生き地獄である日本の現状も知らなかったためだ。なにより、それまでバイトをしたことがなく、ずっと小遣い制だったので、金を自分で稼いでいるという現実は相当うれしかった。なので残業も結構やったし、休日出勤にも出た。職場の人も俺より年上の人しかいなかったが全員良い人だったので、まあ苦ではなかった。

そういえば土日は両親がパチンコで朝から夕方まで不在になったのだが、出かける前に昼食と晩飯は用意してくれていた。コンビニ弁当だったが、日が傾いてくる時に一人で食う飯は贅沢しているようでうまかった。

 

懐かしいな。なんだろう泣けてきたな。

 

 

バンドメンバーとの交友も当然続いていたが、正直それはバンドとは言いづらいものであった。集まるには集まるのだが、俺が曲を作って聞かせて見ても、やろうぜ!とはならなかった。

まずメンバーの中に他のメンバーを牽引しようと思っている奴が一人もいなかった。組もうと言い出したのは俺なのだから、俺がリーダーとしての役目を果たすべきだったが、出来なかった。「俺は作詞も作曲もするけどリーダーはやらんよ」みたいな雰囲気を漂わせていた。リーダーは絶対やりたくなかったのだ。当時の俺はグループのリーダーという存在自体を毛嫌いしていた。考えてもみてほしい。歌詞書いて曲作って、スタジオの器材調べて、メンバーの調子や得意分野なんかを考える・・・。これらは一人でやる必要はないのだが、日本の教育をちゃんと受けてきた俺は「自己責任」という概念をフワフワと信じ込んでいたのだ。すべての責任を背負い、すべての人に気を配る。それがリーダーであるとすっかり信じ込んでいた俺は、とにかくリーダーだけはやりたくなかったのだ。

 

それに加え、俺がバンドで叶えたかった作品の形は複雑すぎるものであった。

例えば「メロ、サビなどによる既存の概念での曲の構成を撤廃し、起承転結型の楽曲で勝負する」であるとか、「転調をぶち込みまくる」とか。こういう巧妙さを狙っていたのだが、聞き手のことを考慮してなかったわけではなかった。歌詞は分かりやすくしたり曲調を明るくしたりしてバランスを取っていた。しかしそれでも利己的な領域を超えることはできなかった。試聴したメンバーの薄い反応が全てを物語っていた。 

 

さらに、当時から作曲ができたっちゃ出来たのだが、今ほどガチではなかった。今でこそCubaseというちゃんとしたソフトを使っているが、当時作曲に使っていたのはバンドブラザーズとかいうDSのゲームに内蔵された作曲モードだった。それで作った曲をパソコンに録音し、パソコンにインストールされた編曲ソフトで楽器ごとの録音データを組み合わせるというかなり面倒かつ低品質なことをしていた。自分のパソコンを買うまでずっとそんな調子であった。

 しかもコード進行などの知識がゼロであったため、ベースとギターは単音のボボボボボというゴミみてーな音しか鳴らしていなかった。よくもまあこんなレベルでバンドメンバー唯一の作曲家を気取っていたものだ。

 

 つづく。