INFPの転々白書

その時の価値観を書き殴る。

恋愛ものが苦手である理由

コメディ色強めのやつならなんとか鑑賞できるんだが・・・。

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〇リアルものか?非現実ものか?

恋愛は私生活の中において身近なものであるので、共感の度合いが左右しやすい。共感しようと思えばいくらでもその世界観に食い込むことが出来る。俺は共感しやすい方なので、主人公に恋人が出来ると「はえ~良い人見つけたんやねえ、人生良いことないとねぇ、辛かったよねぇ良かったねぇ」と安堵するのだが、結構な確率で物語中盤でゲスな奴が出てきたり割り込んでくる。

これが非常に疲れる。

作品である以上、見られなければ意味がないので、鑑賞するに値する"作品"にまでアイデアを昇華させる構成が構築される。コラムや一話完結物を除いて、最もシンプルな起承転結の形に落とし込もうとする場合には、物語中盤で新キャラを出すとか主人公のゲスい過去を描くとかして長編としてのDNAを書き上げて行くことになる。これは、それが"物語"であって"作品"であるからこその外的要因である。しかし先述した通り、恋愛は一般人にとっても非常に身近な存在であるのに対し、恋愛ものにおける"物語だからこそ起こり得るイベント"は、あまり現実的と呼べない展開が多い(類は友を呼ぶ理論でいくとその限りではない。例えば物語中盤で主人公の彼女が友人に寝取られる展開を見て「あるあるwww」と思う人間と「いねーよこんなカス友」と思う人間とに分かれるとする。人はそれぞれの価値観に沿った生き方をしている以上、この両者の「意見」こそ重なることもあるだろうが「価値観」が重なることはないので、以下の文章は『俺は「人の彼女寝取る友人とかありえねーよ、非現実的だわ」と思う側の人間である』ことを念頭に置いて読んで頂きたい)。
そのような非現実的なシーンの挿入は、俺の中に強い拒否感を生じさせる。

しつこいようだが恋愛は非常に身近なもの、現実的なものである。そんな現実的なテーマの中に、いきなり非現実的な展開が挟み込まれると、頭の中に多量の「?」が生まれるのだ。

これが例えばゴジラとかクローバーフィールドの場合には、非現実的な存在をドドーンと出してこられるので、途中で現実的な問題・社会風刺などを揶揄されても受け入れられる。なぜなら、その物語は身近ではなく、ありえないものであると考えた上で見てるからだ。鑑賞する際の受け皿を、広く見積もった上で見ているからだ。

はじめの一歩なんかの場合、スポーツという大きな括りを見れば身近なものを取り扱ってる感じがするが、ボクシングとなった途端にやはり身近とは呼び難い存在だなと無意識に感じる。日常的ではないな、という姿勢のもとに鑑賞するので、結果「実際にはありえないけど迫力あるわぁ」と腑に落ちることになる。

わたもてなんかはかなり日常的な描写の中に読者の想像を越えてくる展開が取り込まれてはいるが、我々一般の現実的で身近な出来事を超越してくるようなゲスいキャラと主要人物は完全に区分されている構成となっているため、(絶妙ではあるが)現実的と呼べる範疇を越えることはないようになっている。なので「実際にいそうなバカやなぁもこっちは」となる。

 

多くの恋愛ドラマ・恋愛映画は比喩されずにありのままの恋愛物語を曝け出してくる。政治や金融、正義vs悪をテーマにした映画を見て「これは昨今の恋愛事情を皮肉ってるな」と思わせる作品はまあ無い。それと同じように、恋愛ものを鑑賞して「これは昨今のマスメディアのあり方に一石を投じる作品だな・・・」なんて感想は生まれない。

恋愛映画は恋愛映画なのだ。

恋愛物を見るとき、これは現実にありそうなお話ですよーと言われている気がするので、そういうつもりで見るのだけれど、なんかよく分かんないカスみてーな登場人物がいきなり出てくる。「こんな奴、俺の人生に出てこねーよ。いねーよ」という歪がいきなり生じる。

結果、鬱病となる。

 

あとあれだ、恋愛ものの作者はもっと今の若者の経済状況を想像しろ。さすればもっといいもん出来ると思うぞ。ガッハッハ。

 

 

 

おわり。