INFPの転々白書

その時の価値観を書き殴る。

泳ぐことに時間を使うか、眺めることに時間を使うか

たとえばデートやセックス=異性との閉ざされた関係を過ごすことや、友人とのキャンプやらバーベキューやらなどのこれもまた友人との閉ざされた空間を過ごすことが、俺にとっていかに難しいことなのかを書いておく。

 

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出典:Pixabay

○海に誘われたとする

友人らから海に誘われて行ってみると現地で友人の友人が現れたとする。たまたま居たのかもしれないし、移動中の車の中で「あいつも呼ぼうぜ」などと言い出した不心得者がいたのかもしれない。

俺にとってそいつは友人の友人であり、初対面もしくは会釈をする程度の関係なわけよ。

普段決まったルーティンをこなすだけのループする日々を過ごす俺と、そこから抜け出して仲間との日々を謳歌する連中の違いを思い知るのはこういう瞬間である。

俺が粛々と馬鹿正直にまっすぐ歩いている間に、みんなは何度も寄り道をし、白紙から始まる人生のカタログが写真でブヨブヨになるまで思い出を残すのである。新しい人間と出会い、新しい物に触れて、楽しい日々を送る。

こういった場面に出会すとね、自分がいかに小さく、根性なしで、ダサくて捻くれた奴なのかを痛ましいほどに感じ、寂しくなり、寂しがっている自分に無償で同情してくれる人がきっといるとか都合の良い事を考えはじめ、自分を信じられなくなるのだ。

 

俺は俺の中でしか俺の世界を閉ざしていない。なぜなら俺にとって「人生でやりたいこと・残したい意味」とは、俺にとっての最高の音楽を作ることだからだ・・・。誰のためにもならず、誰かとすることさえ難しいものだ。これからやりたいこと・興味のあることも山ほどあるが、全て物作りだ。消費する側にいて、満足できる自信がないのだ。

しかし彼ら彼女らは、そんな自分の世界ってやつを1ミリでも良いので何とかして友や恋人と共有しようとし、”閉ざした世界を誰かと共に”過ごしているのだ。そのために時間や娯楽施設を使って消費するのだ。おそらく彼らにとっての供給とは、「飯を食うためのもの」だとか、「誰かのためになればよい」といった潔い動機のもとに発生した"ついでのイベント"なのかもしれない。

 

家から学校へ、学校から家へ。

家から職場、そして家への繰り返し。

繰り返すことで得るのは、ループするだけの日々への不信と疑念と安心である。厄介なことに、こういう日々を繰り返す行為ってのは、安心・安全がある程度確保されているのだ。

望まなくとも手に入れることが出来る安心感。

口癖や行動の知れた仲に留まる程度の知人らとの関り。そして、通勤途中で手に入れることのできる最低限のライフラインを確保するための食糧や生活用品を、効率よく購入する工程を少しずつ構築していく半端な俺の生存本能。

全てが鈍っていくのが分かる。使っていない感覚と筋肉から徐々に凝り始め、やがてやせ細るだろう。

 

ループには安心感がぶら下がっているので、時たま「名古屋でも行ってみるか」とか思っても、いざ行動しようとすると勇気が必要になるのだ。慣れ親しんだ通路と街並みを外れる行為は、先に触れた不信と疑念と安心から外れる行為でもあるのだ。なんともガキっぽいというか、貧しい発想である・・・。日本では奴隷のような人々がどーのこーの言っている俺自身が、いちばん奴隷として理想的な生き物なのではないだろうかと思えるほどに、俺の首に巻かれたリードは俺の視野を犯している。通い慣れた道一本外れることが出来ない。そのくせ、人生において最も重要な機転である進学や就職からは大きく外れ、それでも生きようとしている、なんか大変そうな奴というポジション。

これもうわかんねぇな。

 

「友人は少ない方が幸せである。」

そりゃそうだろう。時間が確保できるのだから。

だが、みんなその確保した時間を満足するまで使いこなせているのか。そんな「本当の意味で充実した一日」を過ごすことのできる奴など本当にいんのか?

つべやヤフコメやツイッターなんかで、やたらと「時間があって自分を磨く陰キャのほうが陽キャよりも優れてるし魅力的」みてーな意見を見かけるが、どいつもこいつも本当に時間ってやつを惜しみなく使い果たして生きているのだろうか。

 

甚だ疑問である。

 

〇オーディオストック

そういえば報酬入った。

342円笑。

まあ前進してんのかな・・・。

 

 

現場、以上です。