俺=INFPにとってのリアルはシュールなのか
下書き溜まりすぎて草ァ!
〇何かを考える時間
心の中に化け物がいても、飼いならせるなら問題ない。
飼い慣らすことが出来ている、と思う段階では、果たして本当に自分の素を隠せているのか分からない。自分ではコントロール出来ていると考えているその場面を停止してみて、別の視点から俺を見てみる。するとあーら不思議、全くコントロール出来ていないではないか。
たとえばそれは会話(言葉)に現れる。ちゃんと話せてると思っていても、三人称視点で見てみれば、どもり、つっかかり、単語を選び、終え、反省している。
出来ていると思っていても、実際には出来ていないということだ。
自分を客観的に見る行為は、とても難しい。
目の前にいる人は全員難なくこなしているように見える。あらゆる事を。
万事が万事この調子ではないところをみると、ギリギリではあるがとりあえず生きるに事足りる、というのが俺の現状なのだと思う。
〇INFPにとってのリアル
別の言い方をすれば、俺と他者との間に境界線が見えるのだ。
いや皆そうだから、と言われるだろう。
事実そうだろう。
あれ、じゃあ良いのかいや良くねえ。
インターネットは自分の欲している情報が都合よく表示される仕組みになってる。ネットを介した情報格差ビジネスの犠牲になっていない人間などもはやいないだろう。
ということは、俺が「みんなそうだわwww」と思い続ければ、その内パソコンの画面も同意してくれる。詳しい仕組みは知らんが、アルゴリズムによって俺は安堵する機会を与えられ、正反対の現実を強引に閉ざしてしまう・・・。
そういう流れなのではなかろうか。
そうだとすると、やはり俺と他者との間にある境界線は現実だし、考察するなと言われても深読みしてしまうのである。時間と体力の浪費だとしても、俺の脳みそは勝手に御託を並べ、拙い知識と鈍い知恵が働き、俺をさらなる孤立した大理石の足場へ誘導するのだ。
この境界線は、「人生とは何ぞや」だとか、「なんで俺らって恋すんねん」だとか、「歌詞のない音楽?おもろいんかそれ」だとかに対する答えの相違によって滲み出るものであることは間違いない。
そういう細かい因子は砕けて惑星となり、人の核に根を張り寄生していく。
アイデンティティだとかパーソナリティだとか、この際言葉は何でも良い。
俺の尊敬する人が言っていたのだが、人はみなコミュニケーションの練習をしていないので、ほとんどコミュ障なのだそうだ。
価値観も同じことが言えると思う。
俺たちは価値観を受け入れる練習が不足しているのだ。なので他人の思想を受け取れるスペースを確保していなかったり、考え方を時にはアメーバのように柔軟に変えることが出来ないので、価値観は凝り固まってしまうのだろう。
そういう各々の考えは、言葉にせずとも見えることがあるのだ。INFPにとって目を塞ぎたくなる現実はこういうものに映っている。
〇とはいえ
ならば一般的と呼ばれる考え方に自分を押し込めるか?過呼吸にでもなりながら、無理矢理にでもこの残酷で冷徹な社会にチューニングを合わせるのか?
とても出来ん。
身が捻り切れそうだ。
やはり、ある程度の距離は常に欲しい。心を許せる人に会いたいという欲もあるが、俺の価値観や行動、それらの契機がシュールなものとして認識される手前、「自分は繊細さと大胆さを兼ね備えた不思議なニンゲンである」という自覚ぐらいはしておいた方が良いのかもしれん。
〇あなたの風が吹くから
あなたにとってのリアル
それは他の人にとってはシュール
だから何なの ありのままの心を見せて
↑ここ好き。