INFPの転々白書

その時の価値観を書き殴る。

奴隷と満腹感

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檻にどじ込められても、その閉鎖された空間の虚無感やストレスを中和する快楽を与えられると、人は満腹感を得る。この快楽は「奴隷の幸福」「主観的幸福」「生活満足度」などと呼ばれる。
最初の数日間は「慣れ」が発生しないので、支配者と不平等への怒りや反骨精神が沸き上がる。数日たつと、繰り返し与えられる中和への拒否感は薄れ、むしろありがたい、安価で与えられるのだから下らないトラブルを避け文句を言わずに受け取る方が合理的であると考え始める。適応という考え方である。なんといってもこの檻の中に閉じ込められている奴隷は1人ではないため、会話という意識的な覚醒剤が絶えない。その上、与えられる中和の数と種類には際限がない。飯、セックス、アルコール、たばこ、パチンコ、あんぱん、果ては奴隷による奴隷のための中和であるSNSまとめサイトまで、現代では何でもそろっている。しかしこの考え方はストレスの要因を減らすこととイコールではないだろう。「ストレスの原因は消せないけれど、とりあえず目を背けることはできる」というだけである。当然である。この中和は、つまりこの管理システムは、管理する側の人間によって勝手に策定された制度であって、長い歴史の中で一方的に押し込められたものだ。

わざと焦らせ、このままではいけないという気持ちを抱かせる。そして「あなたはそのままで良いんですよ」とささやき、安堵させる。空腹→満腹のサイクルに奴隷を閉じ込めることで、ストレスの吐き口を別の回路へ誘導させ、悩みや不安はもう解決したと錯覚させるのである。
この、現代社会の関節部位ともいえる箇所についての熟考は、もはや一般的には無駄な労力とされている。なんでって、多くの人にとって生を得るためには働かなければならず、働いている限り、人は「与えられた中和」というシステムから逸脱した「自身からの創造」をする時間が削減するために、消費に時間のかからない中和に溺れたいためである。人間は合理的である。都合と、いかに楽するかを考えるのに長けた動物だ。

我々は中和を頂戴するほかには先ず術がないのだ。術とは作らなければならない。そのためには1人では無理である。なぜなら中和の外殻の一つであるデフレ対策という搾取的構図を砕き、剥き出しとなった中和を出来るだけ多くの人に見せなければ、もはや眠っているに等しい奴隷の目は覚ますことが出来ず、抜け駆けを許さない風潮の中に引き戻されてしまうためだ。到底1人では不可能なのだ。そのためどうしたって数が必要なのである。
が、協力者と出会う確率は非常に低い。協力者を募ったとしても、中和に溺れた"中毒者"に見つかり、そのトピックは瞬く間に犯されてしまう。中和に対しての怒りを思い出す(ある意味必要ないことだけどね)ための手段というか段階はいくつかあるが、いずれも収束する先は経済学への理解である。
頭の片隅に"集団的酔い"への違和感を抱いている限りは、どんな選択をしても、やがては経済学への興味に辿り着き、システム全体を理解しようとし始めるためである。
そんな面倒なことできっかスカがwwwwという人間は、ひたすらまとめサイトやらニュースアプリのコメント欄で、荒み、荒らすだけである。これが中和中毒者である。


中和は分断統治を生むのを助長した。
分断は各地で起こっている。
それまで抑えてきた中和への違和感、その時限爆弾がついに爆ぜた。
多様化を例に挙げる。
分断の発端は奴隷同士が作り上げる「雰囲気」である。こうでなければならない。こうするのが普通である。このように、我々はどうしてか雰囲気を作り出すことに長けている。集団内での共有物を次々に作り出し、個々のリンクしている承認欲求をより盤石にするのである。その割に、それらの共有物はとても漠然とした、泡のような"イメージ"に過ぎないものだったりする。多様化とは、それまでイメージとしてしか捉えていなかった概念のひとつである「生き方や働き方」に対する意見を、
[文化などを考慮に入れ、互いに交換し合い、認め合おうという姿勢から入るべき]
というマクロな視点と、
[身近にいる人間の意見から得た統計をもとに議論する]
というミクロな視点から切り込まなければ詰めることが出来ない大きな課題である。しかし、私たちの共有物をもっと具体的なものとして認識したいと言い出した途端、悲しきかな変人扱いである。周りからすると、そいつはもう自分たちにとって都合が悪い人間の片鱗が、薄っすらと見えるのだ。イメージでなければダメなのだ。イメージでなけれは、都合の悪いポイントがいくつも見つかりバレてしまうのである。なので握りつぶされるか、追い出される。万が一、共有物を調べ上げ、矛盾点を白昼の元に晒したとしても、それはいずれ風化する。たとえデジタルタトゥーと言われる昨今のネットにおいても、多くの人間にとっての風潮やイメージなどは、我々奴隷同士の「中和から目をそらすための共有物=暇つぶしのコンテンツ」に過ぎないのだ。そんなものの為に、恥を承知で手を差し伸べる人間など、ほぼいないのである。

分断の原因は、適応に対する拒否である。ひとつ考え出せば、宗教や人種や歴史的背景などを考慮に入れなければならない問題が多々ある中で、好き好んでこの「思考からの行動からの呼びかけ」というプロセスを歩もうとする人はかなり限られる。結局、面倒という感情が勝り、俺たちはその感情に流され、風化し、忘れ、中和に溺れていく。
分断統治は統治を楽にするので、現代の分断の中には、あえて分断を引き起こすことを目的としただけの中和もあるのではないかと俺は考えている。中でも分かりやすいのは働き方改革ってとこか。


まあ、俺はなにも哲学を啓発せよというつもりもないし、今に満足する人の気持ちを阻害するつもりもない。そして今の政治に言うことも何もない。変わるべき本質は個人でしかない。個人が各々で各々の願いや信念を持ち生きること。それしかない。
政治不信どころか企業不信の現代。寿命は延びているが、俺も40歳50歳になれば体のどこかにガタが来て、今のことを憂い、思い出すのだ。情けない奴め。