INFPの転々白書

その時の価値観を書き殴る。

足りない。

俺の体はいつからガタつき始めるのだろうか。40になる前かな。それとも50近くになってからか。いずれにしろ健康なうちに稼げるシステムを作っておかないとまずい。そういう意味ではネットはかつてみんなが平等に活躍出来る場所だった。全てが手探りで、未開拓の土地だった。今は元から知名度のある奴や資金のある奴のパフォーマンスの場となってきている。そんな時代に、俺は何を残し、伝え、そして本当に稼ぐことができるのだろうか。そんなことを考えるわけよ。

 

ブログやツイッターYouTubeなんかを眺めてると、伝え方次第で何でも収入に出来る時代なんだなあと感じ、俺ならこうするなあとか考えることが多い。その一方で、実力主義的な背景がモロに見えるから、いざ自分が腰を上げて歩み出そうとするのがとても辛くて怖くなる。俺はずーーーっとその繰り返し。ずーーーーっとそう。まだ歩き出してもいないのに疲れている。なんだろねこれ。なんで何もしてねえのに疲れてんの?みたいな。

考えることだけが積み上がる日々だからかね。頭でアレコレ考えてるから脳味噌だけは疲れてやがる。

とはいえ大量消費と大量生産、超過需要と超過供給の現代ではスピード命。使い捨ての備品を提供し、自身も提供させられる。ピークが過ぎれば捨てられる。悲しきかなそれが現実。なのでフットワークの軽さがまず重要になる。腰の重たい奴は置いていかれるだけ。個性だの芸だのこだわりだの品性だの知性だの、そんな後天性の要素は誰も見ない。誰も見ないから誰も見せなくなった。あるいはその逆か。見せないから見なくなったのか。ここら辺は分からない。俺が生きてきた26年で見てきた眺めは確かな物だったと俺は思うし、今書き連ねていることはそれらの結果でしかない。しかも時間は止まらない。これから先はどうなるのか。全く分からない。

結局、何かをやろうがやらまいが、俺たちは使われて捨てられるだけなのか。ほんと疲れるよなwwwなんていう、一瞬のたるみを見せれば叩かれる程、ストレスが町中国中世界中に漂っている。少なくともそんな息抜き要員というか、ガス抜き代行人のような存在はネットからは消えていっている。誰が好き好んで叩かれ役を買って出るのか。結果無生産主義者、無失敗主義者のみが残る。つまらんな。面白いことをやろうと息巻いたって何かしらのフィルターに引っかかるわけだから、みんな警戒レベルを相当上げてやがる。

もういい加減に飽きてきた。ビクビクしてる生産者にも、叩きたくてウズウズしてる消費者にもだ。それに俺にはもう時間がない。今のうちから金塊の埋まってそうな場所に出来るだけ爆弾仕掛けて置かないとやばい気がして、もう気が気じゃないわけよ。

なーにが怖くて動けないだよ。叩かれようが無視されようが迎合されようが、どうせ俺なんてとかいってカッコつけるくせに。馬鹿じゃねえのか。